
NPO「昭和の記憶」
日々失われてゆく高齢者の記憶。これを後世に残すのが私たちの使命です。
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わたしの父は鵜倉島町の町長さんだったんです。自分は7人兄弟の6番目。子どもの内、一人くらいは商人にという父の意向で当初はわたしも納得できませんでしたが、最終的に商業を営むことになりました。商人になる際に父から受けた訓辞のような言葉が三つあります。
1)賭け事をするな
2)他人に迷惑をかけるな
3)人にいやがられるようなことをして金儲けをするな
これら三箇条はたいせつに思ってきました。昭和35年に養子に入って、北沢の栄屋の経営者になったんですが、当時からこのあたりは二代目が多かったですね。商店街で最大なのは、「一番街」、次が「北口駅前」その次が「東会(あずまかい)」、4番目が「南口」(白川さんの経営する栄屋は、下北沢南口商店街入口にあります)なんですよ。
界隈では、南口が一番後発の商店街なんです。商店街振興の苦労は一筋縄ではいかなかったです。お客さんに来てもらおうと、他の店主の方と共同でジャズダンスの会や、様々な催しを試みました。
もともと南口周辺は住宅地。駅からなだらかに降りていく下り坂も両側は静かな住宅地でした。その後に商店街ができだしたけど、貸しビルにお店が入っている形態がその頃の特徴で、それは今でも変わっていない。この辺りもみんな貸しビルです。賃貸で店をやるところがほとんどなの。だから入れ替わりは激しいね。
私のところは店を息子が継ぎました。息子は現在、南口商店街の副理事長もしています。本多劇場は下北沢のひとつの中心地だけど、はじめは経営者の本多さんが、借家みたいなところでバーをやりだしたんです。知り合いの俳優をお店に連れてきて、バーをやった。これが流行って、それからかなあ。若者が集まるようになったのは。俳優に会えるお店ということで流行ったんだね。昭和40年ごろのことです。
下北沢の古い祭りで天狗祭りというのがあるんですよ。もともとは北口の方に住む方々のお祭りだったんだけど、わたしの時代に、南口も入って一緒に祭りに参加するようになりました。
再開発はなかなか地元の商店街にとっては難しい問題でね。たとえば、わたしは出身地の伊勢で南海地震という大きな地震に遭ってその揺れや波の被害を十分に知っていましたから、小田急線の高架には実をいうと反対でした。でも同調してくれる人は少なかったね。駅や商店街、界隈をよくしようという気持ちは人一倍もっていて、最近では井の頭線の土手を駐輪場にしようという活動をしています。
下北沢からは離れますが、昭和35年に親戚の人と二人で東京にきたときに、中央線で神田の辺りを通ったんです。その時にニコライ堂が見えてね。藤山一郎さんの歌であるでしょう。「ニコライの鐘」という。あの歌を知っていたから、あぁ自分も東京に来たんだなあとしみじみと思ったね。それくらいニコライ堂はインパクトがあった。
わたしは新橋の佐久間町というところに生まれました。今は西新橋となっている所ね。店の名前になっている元の店主のマサコは大門の生まれだった。お互い生地は近かったな。彼女は大正14年生まれだったと思うから、ひとまわり年が離れているね。駅の記憶では、みなさまより駅にまつわるお話を随時募集しております。懐かしい思い出話、駅の以外な一面、心あたたまる話など、ありましたら駅の記憶までご投稿ください。
みなさまのご投稿をお待ちしております。
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