第05話 宮崎駅
駅の思い出
第05話 宮崎駅 駅の思い出
- [投稿日:2006年6月 1日]
竹田利夫様(86) 宮崎市 元宮崎駅職員

私が宮崎駅に就職したのは昭和13年1月、17歳の時でした。電信掛として勤務しましたが、3年後には戦争で兵隊へ。昭和21年の9月に復員しました。
終戦直後は、お客さんが1日も早く乗降に不便のないようにと、空襲の被害でバラバラになってしまった駅をとにかく早く建て直すのに必死。木造で素早く作ってしまったのではないでしょうか。復員した昭和21年当時は、バラック小屋のような駅でありました。
当時は働き口も少なかったので、私のように戦争から帰ってきて駅に復帰する者の他に、朝鮮や満州、中国や台湾に派遣されていた人たちなど、国鉄が希望者を
みんな従業員として受け入れました。だから、駅には座る場所がない。仕事をするにしても、それだけの人に見合う仕事の量がないわけです。人だけが駅にたむ
ろしているような状態で、全国で60万人もの莫大な人数に上りました。
戦前は電信掛を担当していました。当時は駅の窓口が電報を受け付けていたんです。宮崎駅の近くにあった公認宮崎競馬場で、年に数回か競馬が開催されていた
のですが、その度に、「金を送ってくれ、送ってくれ...」という電報を何通も預かったのが非常に印象的でした。競馬で負けた人たちが、その日旅館に泊まるた
めのお金がなくなって困ってしまったんですね(笑)。
当時、駅の東口は今と違って、ものすごく閑散としていました。あるものといえば、宮崎刑務所と女子校が一校くらいで、非常に閑散としていた。一方で、西口
は新婚さんで賑わっているという対照的な風景でした。その頃の宮崎駅西口は、九州で一番飲み屋が多いといわれたほど、相当なに賑わいでした。
昭和22年2月から貨物掛の仕事に移りました。今はもう旅客車(電車)が主として走っていますが、当時は貨物列車がたくさんありました。何種類ものルート別に貨車を仕分けして連結させないといけないんですね。この作業は非常に大変でしたが、とても懐かしく思い出されます。

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