駅の記憶

駅の思い出
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第19話 下北沢駅 駅の思い出

  • 福島信吉様 世田谷区北沢在住 「ジャズ喫茶マサコ」経営
    昭和11年 東京都港区西新橋生まれ

    memory_photo_02.jpgわたしは新橋の佐久間町というところに生まれました。今は西新橋となっている所ね。店の名前になっている元の店主のマサコは大門の生まれだった。お互い生地は近かったな。彼女は大正14年生まれだったと思うから、ひとまわり年が離れているね。

    当初は、マサコがライブに行って、ファンになったジャズミュージシャンがちらほら来てくれるという感じだったと思う。お店を手伝うようになったのは昭和 30年代からだけど、昔は、多摩や八王子へ移る大学もなかったから、下北沢に住んで水道橋や飯田橋あたりへ通学する大学生もたくさん居たね。昔から学生と 若いサラリーマンが多かったと思う。

    駅周辺の界隈の変化としては、忠実屋が昭和40年代にできた経緯を覚えている。うちの隣には北沢エトワールという映画館があった。アズマ通りの方には今ス ポーツクラブになっているところだけど、オデオン座。北口のみずほ銀行の横がグリーン座。ゼンモールという北口の先の洋品店のあるところ、あれが、北沢劇 場。洋画をやっていた。エトワールでは、日本の映画をやっていたよ。美空ひばり、中村(萬屋)錦之介の出演作品だね。ただ、エトワールは火事になった。 ちょうど今時分、昼の2時くらいに焼けた。昭和40年代。そのあとに忠実屋になった。映画館の跡地にスーパーマーケット。時代を反映しているね。忠実屋 は、いまグルメシティになっているけど、あの建物も近く解体するらしいと聞いています。

    ジャズ喫茶というものは、昔はいたるところにあった。たまり場だね。多様な喫茶店が昔はあって、歌声喫茶、美人喫茶、純喫茶などなどがあったね。ジャズは 全然嫌いじゃないけど、そんなに好きというわけでもなかったんですよ。遊び場がジャズ喫茶だった、ということなんだね。今の大学生や若い人たちの遊び場は 多様化しているでしょうが、昔はあまりなかったんでね。

    お客さんの様子も変化があるね。うちは54年経っているから、子供を連れて見える人、最近は孫を連れて見える人も居る。でも、大学生と若い人が多いね。

    同窓会をやる人がいるね。土日にね。貸切はやっていないけど。懐かしがって、コーヒー飲んでジャズ聴きながら同窓会。お店をやっている中では、昭和50年 前後が一番よかった。その頃は下北沢にはジャズ喫茶が5、6店舗あったかなあ。全般に商店街が忙しくて活気があった。今ある活気とは違う活気だね。まだ ファーストフードのお店はなかったんですね。わたしはファーストフードは好きでよく食べましたが、ファーストフードが進出する前後に街は変わってきたと思 う。1980年前後だったか、駅にくっつくようにしてマクドナルドができた。それができる前は「名店街」でした。

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第18話 渋谷駅 駅の思い出

  • 伊藤雅一様 埼玉県ふじみ野市在住 昭和58年生まれ

    109、HMV、マルイ、ロフト...。渋谷駅のハチ公口を降り、センター街の方へ向かうと、購買意欲を誘うような店舗が所狭しと林立している。

    渋谷といえば日本でも屈指の流行発信スポットであり、終日人の賑わいが絶えることはない街という印象が強い。しかしそれは渋谷の一面であって、中心部を一歩離れれば違う渋谷の面影を垣間見ることができるのである。

    私の通う大学があるのは、センター街とは逆方向の、閑静な住宅街の中に佇んでいる。近くには氷川神社があり、桜花の色合いを見、木陰の涼しさを感じ、落ち 葉を踏む音を聞くことで四季の移ろいを私達に教えてくれる。やや遠回りになってしまうにも関わらず、わざと神社を通り抜けて通学するのは、そんな四季折々 の諸相を楽しみたいからだった。そんな神社を含む渋谷駅と大学を結ぶ道は、私が最もよく歩く渋谷である。

    私は大学で文学を学んでいるが、渋谷もまた文学と所縁の深い場所である。
    例えば国木田独歩は、渋谷がまだ渋谷村だった頃に住居を構え、名著『武蔵野』を生み出した。渋谷公会堂とNHK放送センターの間の道を下っていくと、ひっ そりと国木田独歩の住居跡の碑がたっている。また、白樺派の作家・志賀直哉は、常磐松小学校と金王八幡宮との間にあたる場所に住居を構えていたことも知ら れている。
    文学好きの学生が、志賀家の表札を持ち帰ってしまうという困ったエピソードも残っている。渋谷駅周辺は意外と、文学散歩に適した場所なのである。

    大学に通い始めて渋谷の歴史の奥深さを知るようになり、渋谷の新たな魅力を見つけることができた。耳を澄ませば、文豪の足音も聞こえてきそうな渋谷の小道。そこを私は毎日、大学へ通うために歩いている。
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第17話 川崎駅 駅の思い出

  • 一色令子様 神奈川県川崎市 アナウンサー

    たこ焼き、焼きソバ、フランクフルトにいなり寿司。〆(しめ)はスイカのカキ氷。
    これは我が家の夕食メニューです。まるでお祭りの縁日のよう!?
    そうなんです。東海道の宿場町・川崎は、今でも祭りが盛んに行われ、駅近くの稲毛神社の周りにはずらりと屋台が立ち並びます。
    今日は? 何のお祭りだっけ? と考えてしまうほどの頻度。夏になると各町内会から神輿が出て駅前は車線規制の嵐です。

    特に我が家は、義父が町内会長ということもあって祭で出す食べ物のメニュー作りから熱が入ります。
    でも私が川崎に嫁いだ15年前。実家の両親はかなり心配したようです。まだ新米の嫁として祭りに携わっていたころ、実父が突然、祭りの会場にやってきたことがありました。
    父からすれば「風紀の悪い川崎...。しかも祭りなんて...。娘は酔っ払いにからまれているのではないか」と気が気ではなかったとか。

    父の予想とは裏腹に、仮装までして(ピエロになりました!)和気藹々とカキ氷を配っていた私――。
    イチゴの氷をほおばっりながら、父親は私の幼い頃を思い出したと笑っていました。
    父の言うとおり、子どものころ大好きだったのが町の小さなお祭り。浴衣を着て、ヨーヨー釣り、わたあめ、あんずあめ、焼きもろこし、威勢のいい金魚すくいのお兄ちゃん...。
    川崎駅に降り立って、太鼓の音が聞こえてたら、そんな子どものころにタイムスリップするようなウキウキと落ち着かない気持ちになるのです。
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第16話 新橋駅 駅の思い出

  • 真部和昌様 ニュー新橋ビル2F商店街会長・和食「初藤」2代目

    memory_photo_01.jpg 昭和9年に東京で生まれました。親父が当時の西口のマーケット街に、「真交園」と「呑安」っていう飲食店を出していて、私も20代後半からその店を手伝い、2代目になりました。その後、ニュー新橋ビルに移り、今は2階で「初藤」という和食のお店を開いています。

    今の日比谷口、烏森口がある方が西口。汐留駅のある方が東口ね。僕らは西口を仕事でよく使っていたから、東口の方はあまり行かなかったかな。新橋は格式高い駅だったね。レンガ造りでね。駅長の格も高かった。東京、上野に続いて3番目かな。

    当時は木造の2階家の商店ばっかり。上に住んで、下で商売をしていた。ツツミビルっていう4階建てのビルがあってね。そこが一番高い建物だったの。そういう ビルが4つ~5つあった。

    レトロ調――戦後の間もないころ、どさくさにまぎれていたマーケット調の雰囲気が、今でも西口には多少残っているわけ。赤提灯におでんに焼き鳥屋さん。今 でも商店街にはこういったお店が一番多いんですよ。日本人にとって、飲食店の初期的なものですよね。それぞれのお店には今でも固定のお客さんがついている ね。

    今の駅前のSL広場のところにはステージがあったんです。そこに街頭テレビが2~3台あってね、野球や力道山の様子を写していた。昭和28、29年ごろだ ね。あのSLは当時はまだなかったんだよ。あとで商店会が持ってきた。昭和50年ごろかな。国鉄が民営化になったでしょ。その記念にね。

    memory_photo_02.jpg新橋は、見ず知らずの人がお互い飲んでいても、飲んでいるうちに気心が知れて、そいういう親近感があふれる街なんです。「大衆的」という言葉がぴったりか な。そこが、おじんの街であり、赤提灯の街であり、焼き鳥の街。それが、ビルになるとどうしてもその雰囲気が伝わらないんだよね。閉塞感があるでしょ。新 橋みたいにスキンシップできる街の雰囲気は少ないよね。そういった昔ながらの雰囲気は残しつつ、なおかつ周りがもう少し明るくなっていけばいいな。
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