駅の記憶

第16話 新橋駅
駅の証人に聴く

  • listen_mainimg.jpg長尾武次さんは昭和8年8月2日生まれ。明治18年に創業した化粧品店の3代目として、新橋ニュービルにもお店を開いていらっしゃいます。ニュー新橋ビル 連合会会長、東京都港区商店街連合会副会長としても活動され、生まれ育った新橋地区活性化のため、地域の方々と様々な取り組みをされています。新橋駅の変 遷を肌で感じてこられた長尾さんに、駅前の移り変わりの様子について伺いました。

    ─ 長尾会長が幼いころ、当時の新橋駅はどんな様子でしたか?

    長尾:僕は虎ノ門で育ったから、新橋は行動範囲。そのころ熱海に別荘があったんで ね、ちょくちょく親に連れられて新橋駅から行ったり来たりしてたよ。私がまだ幼稚園にあがる前ごろ、昭和12、13年ぐらいのころはまだ東口だけだったと 思います。今もうっすらと覚えてるけれども、立派な駅だったよ。駅舎の格好は今と変わらないけども、天井が高くて、降りると赤じゅうたんがひいてあるの。 そこへね、汽車が来ると、当時は高いビルがないから、まず見えるのが愛宕山。「汽笛一斉 新橋を」のあの歌(鉄道唱歌)の通りの風景がそのまま見えてね。 それから向かい側を見るとね、品川の海が見える。昭和20年3月10日の空襲で全部焼けてしまってね、終戦を迎えたころも、まだまだ同じ雰囲気で、汽車に 乗ればそんな風景が見えた。それで新橋のヤミ市ができた。そのころ新橋の西口ができたんだね。西口にヤミ市が広がってね。そのころ、東口はだいぶ廃れてい た。東口は降りる人がめったにいない。でも、その方面には築地があるから、朝の買出しの時だけ、商売する人たちの行き来が見られましたね。だから、戦前は 東口だったけど、戦後、西口ができてからは西口がどんどん繁栄していきました。

    それから、当時は駅のプラットホームは1本だったんだよ。今は3本あるけどね。ホームの長さも今より短かったから、改札の場所も違ったね。ガード下の赤レ ンガのアーチは昔のままだよ。新橋~有楽町~東京まで続くあのアーチは大正時代に作られたっていわれているね。松の木を心棒にして作られたと。もう100 年ももってるわけだから頑丈だね。もうさすがに寿命だといわれてるけど...。

    ─ 新橋といえば、サラリーマンの飲み屋街が印象的ですが。

    listen_photo_01.jpg長尾:ヤミ市ができて、そこから派生して、どんどん人が集まるから、朝昼晩の食事処が繁盛していったわけですね。汐留は近代的な雰囲気ですが、こちらはそういっ た昔ながらの商売の雰囲気が残っていますね。汐留のお店はどこも30~40坪ぐらいあるけど、こちらはどこのお店も5~10坪ぐらい。そういうお店が残っ ていますね。近代性を競ったら競っても競いきれない(笑)。新橋には、心のコミュニケーションのある商売をしていってほしいという思いがありますね。

    当時はとにかく食べるのがやっとでね、お米や着るものがなかった。そこで、自然発生的に、家の中に残っているあらゆるものを売ってお米に換えていた。農家 の人たちも、新橋で売った方が3倍も10倍も値段が取れるから、関東周辺の人々ははみんなお米やなにかをを担いで新橋まで持ってくる。そこでたくさん稼い だ人もいた。だから新橋がヤミ市といわれたんだね。

    でも、このままこきたないヤミ市があると困るから、再開発をしてきれいにしようと、都がこのあたり一帯を買い取って、再開発を始めたんですね。それででき た第一号がニュー新橋ビルだったんです。昭和46年4月16日にオープンしたの。今までこの地域で250軒以上あった商店をまとめて、優先的にこのビルに 入れていったんだね。区分所有ビル、つまりマンションの第一号だね。普通はビルのオーナーがいて、全体で何時に開店、何時に閉店といった統制があるけど、 このビルは、各店舗一人ひとりがオーナーだから、シャッターを下ろしているところもあれば、営業しているところもある。雑居ビルの典型がニュー新橋ビルだ ね。

    まだ交通の状態が今みたいじゃなかったころね、霞ヶ関の官庁がありましてね、そこに勤めている人がほとんど新橋から歩いてきて当時の国鉄に乗って家に帰っ ていった。だから、当時は会社が終われば必ず新橋を通る。そこで一杯飲んで帰ろうと。「新橋の赤提灯は安い」と言われてね。毎日飲んでもやっていけるお値 段だったからね。それで新橋が繁栄した。でも、だんだん世の中が変わってね、不況の影響からか、官庁の接待が禁止になったりで、世の中の考え方が変わって きた。それで元気がなくなっちゃったんだね。

    ─ 長尾会長のお店は昔から新橋にあるのですか?

    長尾:お店自体は神谷町で明治18年創業。「長尾化粧品店」ね。その後、しばらくは虎ノ門でやっていたんだけど、昭和31年烏森通りに移動し、新橋の仲間入りを したわけ。そのころは芸者がいてね。新橋芸者といってね。烏森芸者はそのワンランク下。だから、夜中にお店を開いていても商売になった。芸者さんがみんな 買い物に来てね。検番っていう芸者の元締めがあったよ。ニュー新橋ビルができたから、その中にもお店を持つことになりました。

    当時バラックで焼き鳥なんかをやいていた人たちが当時のやり方をそのままビルの中でやってね。お店の中でサンマ焼いたりアジを焼いたりしてたもんだから、 ビルはけむりだらけ。でも、煙がにおわないとお客がこないと(笑)。ヤミ市の発想を引きずってそのままビルになったというわけだね。

    今はオーナーが330人ほど、お店は250軒ぐらいあるけど、当時から続いているところは15~16店ほど。そのころは父親の世代が寝ずに24時間働いて 必死な思いでこのビルに入ったけれど、だんだんその土地が高く売れるようになってきて、息子の世代が簡単に売ってしまった。時代の流れだね。住宅も80軒 ほどあったけど、今残っているのは4~5軒。ほとんどは事務所になったね。

    ─ 長尾会長にとって、新橋とはどんな街ですか?

    長尾: 新橋は昔から気取らないいい街。サラリーマンが朝晩通勤で利用してくださった。新橋があったから日本経済の今がある、僕はつくづくそう思う。毎日サラリーマンが鞄を持って行き来してね。そういう人たちが日本を築いた、そう思うね。

    これからは、やっぱり西口を基点に、昔ながらの味わいを残しながら、今風の要素を取り入れた街づくりをしていきたいと考えています。このビルが変れば街も 変わる。今の人たちは、「安心・安全・きれい」を求めるからね。今風だけを重視するわけじゃないけど、お客が望んでいることをも叶えていかないとね。でも このビルだけが変わっても仕方ない。街もJRも東京も一つになって動かないと進まないね。

    今では年に4回、SL広場で大きな古本市を開いています。大盤将棋は毎週土曜に開催。それから「こいち祭り」っていうのもやってるよ。"こいち"ってうの はね、サラリーマンたちが「小一時間飲んで帰ろうよ!」と話すことからつけたんだよ。新橋でこういった定着した催しがたくさんある。"おじさん"の街とい うだけでなく、若い人や女性もずいぶんと訪れるようになっています。今は、立ち飲み屋さんに女性がたくさんいるからね。これからもっとたくさんの人が集ま る街にしていきたいね。


    聴き手、まとめ:NPO「昭和の記憶」

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