第18話 渋谷駅
駅の証人に聴く
濤川由雄さんは昭和11年3月8日生まれ。渋谷地下商店街振興組合の理事長として、現在も『しぶちか』活性化のためご活躍されています。ファッション・文
化、流行の発信地として若者や大勢の人で溢れる渋谷も、その昔は瓦屋根の木造2階建てがひしめいていたそうです。長年、渋谷の街の変化を見守り続けてきた
濤川さんに、渋谷駅の移り変わりを伺いました。
─ お生まれも渋谷なのですか?
濤川:昭和11年3月の8日にね、井の頭線がありますね、あそこを降りた近所(井の頭線向かって左の駅前会館ビル)で生まれたんです。昔はあの辺、木造の家屋
で、平屋とか二階建てとか、細い路地でね、仕舞た屋(しもたや)というのがいっぱいあったんです。商売をしていない、人が住んでいるところね。住居専用の
家。そこで生まれたんです。
両親は大正15年に渋谷に越してきて、その前は深川で商売してました。僕は昭和11年生まれたんですけど、通ったのは大和田小学校。小学校の3年生のとき
まで通いました。戦局がだんだん日本にとって不利になってきて、空襲があるだろうってことで、まず学校を閉鎖して、子供たちは戦争の被害にあって死んじゃ
うかもわかんないから、地方の山奥の方へ集団疎開させたんです。昭和21年に埼玉の疎開地から戻ってきたんです。
昭和18年頃かな、駅周辺は空襲にあって、江戸時代のとき火事があると家を壊したでしょ。火が広がらないように。それと同じ考えで、日活とか映画館があったところを、マメタンクっていうちっちゃい戦車みたいなの持ってきて、柱にロープひっかけて、全部ぶっ壊したの。
初代ハチ公は、渋谷駅の駅舎のすぐ前にあったんです。戦時中に金物がなくて、
溶かして鉄砲の弾かなんかになったんだよね。今のハチ公は戦後に作ったんだよね。
4月8日に毎年、ハチ公祭りやっているよ、午後1時からね。
映画もやっててね、松竹とか。
─当時の渋谷の映画館の入場料や物価はいくらくらいだったのですか?
濤川:僕は松竹ではなくて銀星座っていうニュース専門の映画館に行ってた。
入場料は5銭か10銭くらいかな。
普通の映画館は50銭とか、1円とか。銀星座では桃太郎のキャラクターを使って飛行機乗りかなんかの兵士になって、戦争に行くって言う映画をやってて、それを見たことあるなぁ。
道玄坂の上の方に憲兵隊があったんですよ。で、その憲兵の隊長なんかが乗ってる車がね、坂下りてきて、パンクして止まっちゃったの。それを見たうちの親父
が『パンクしちゃった』って指摘をしたら、それが気に障ったのか、憲兵隊に連れてかれて、しぼられたって言ってたなぁ。それくらい怖かったんだな。
終戦直後、昭和20年か21年くらいかな、共栄マーケットってのができててね。そのマーケットでグローブ買ってもらったの。100円くらいかなぁ。当時は
かけそばが100円切ってて、80円くらいの値段。たぬきうどんが100円で、そんなの食べられなかったなぁ。ラーメンが30円くらい。
そのとき渋谷駅から電車に乗ると、初乗りの子供料金で5銭。大人で10銭くらいだったかな。僕が小学生のころ、4年生か5年生のとき、5銭札とか10銭札があったね。
─
今、渋谷駅はものすごく人が多いですが、どのよう移り変わってきたのですか?
濤川:
渋谷はしっとりした所だった。昔もそれなりにごちゃごちゃしてたけど、今ほどじゃないですよ。昭和35年ごろの写真見てみなよ、道玄坂だってみんな瓦屋根の2階建てだもの。ビルは東急東横とかくらいだよ。道玄坂なんてビルは全然なし。木造の2階建て。
目に見えて変わってきたのは、109が出来たころからだろうね。それまであんまりビルはなくってね。109の道路の反対側に、5階建てのビルがあったくら
い。パルコは109より3、4年前に出来たのかな。パルコが出来る前までは、あの通りなんてのは、夜は怖くて歩けなかった。代々木の練兵場もあったしね。
─ 今、渋谷はファッションや流行の発信地というイメージがあるのですが...
濤川:渋谷はね、ファッションの発信地って言ってるけどね、青学(青山大学)がでかいんだよ。おしゃれな子がいてねぇ。青学の隣、代官山の方へ入っていく八幡通
りの手前の店が、ロゴ入りTシャツってのを売り出したんだよ。それまでTシャツって無地だったんだけど。そこに大学の学生が並んだんだよ。昭和44、45
年くらいだったかなぁ。そこが売れたんだよ。青学の学生と、パルコ。パルコは結構、芸能人きてたからねぇ。
─ 渋谷にゆかりのある方では、どのような方が居ましたか?
濤川:森光子さん。実際僕が見たのは森光子さんだけど、他にも結構来てるってのは聞いてた。
戦前は、松濤(しょうとう)っていうお屋敷町があったんだよ。松濤って知らない?田園調布より一つ格上なんだよ。変わっちゃったけどね。山本富士子さんと
かね、緒方竹虎さんっていう自由党の党首か、そういった錚々たるメンバーが住んでた。森進一さんとか、あと国鉄の三輪さんとか。僕は松濤に間借りしてたか
らね。そういったお子さんたちと遊んだわけ。俳優もいただろうね。
今は南平台の方が格上だけど、松濤っていうと、お屋敷町ではダントツだったの。財界が多い。あと、奥の東横線、田園調布、自由が丘。昔はお屋敷町だったん
だよ。一宅地300坪くらいあったんだよ。戦後、相続税が発生して、それが払えなくてみんな分割してっちゃう。今じゃ50坪から100坪くらいになっ
ちゃった。今はお店がいっぱいあるけどね。
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