第05話 宮崎駅
駅の証人に聴く
花堂純俊さんは昭和5年1月6日生まれ。昭和35年、転勤で鹿児島から宮崎に。その後、約24年間、宮崎駅の旅客掛に勤務。駅の変遷を肌で感じて来られた花堂さんに、新婚旅行客が大挙した当時の宮崎駅の様子についてお話を伺いました。
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宮崎駅といえば、当時新婚旅行客で相当な賑わいを見せていましたね。
花堂:本州から九州に入ってまず賑わう場所といえば別府。でも別府は、当時はまだ"温泉がある街"という位置付けで、観光といえば、断然宮崎でしたね。
宮崎交通のバスガイドが駅前にずらりと並んで、観光客を出迎えていました。お客さんが駅に到着すると、一斉に旗を振ってね。プラットフォームにまで出迎えに行く旅館の女将さんや社長もいましたね(笑)。
特に、昭和42年11月から京都と宮崎の間に走った「ことぶき列車」の頃は、大勢の人が駅にあふれかえって大混雑しました。
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「ことぶき列車」は毎日走っていたのですか?
花堂:新婚さん用の臨時列車として、大安や友引の前後に、下り線のみ出ていました。例えば「今度の大安は連休と重なるから大入りだな」といった見当を付けて、発車させるタイミングを見計らっていたのですね。
全て1等の寝台列車で5両編成。昭和48年に運行を終えるまでに、4000組を超える新婚さんを連れてきたそうですよ。
その頃の賑わいぶりといったらすごいものでした。新婚さんが集団でゾロゾロと駅に降りてくる、そしてみんな手に花束を抱えてね。あまりにも列車に置いていかれる花が多いもんだから駅前や改札に籠を設けて、そこに入れてもらうようにしました。
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ちなみにその後の花の行方は?
花堂:
駅員のみんなで、老人ホームや孤児院に持っていきました。結婚式をしてそのまま電車に乗ってやって来るわけだから、みんなきれいな花ばかり。とても喜ばれましたね。
駅では、あまりの新婚旅行客の多さに、一般の人が泊まるホテルがない、とよく相談を受けました。いわばホテルの争奪戦ですね。タクシーについても同じ相談
を受けました。当時は旅館斡旋を行うタクシーもいたようです。旅館側が客室のマッチ箱にお金を隠しておき、お客さんを連れてきたタクシーの運転手が、こっ
そりそのお金を受け取って帰る――そんな話を聞いたこともありました。
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現在はいかがですか? ホテルの数は減りましたか?
花堂:
数自体はさほど変わらないですが、つくりが変わりましたね。当時は全て新婚旅行のお客さん向けに造られていましたから。今は泊まってゆっくり過ごすというより、眠るための場所としてのホテル、ビジネスホテルがほとんど。当時の雰囲気を残す旅館は非常に少なくなりました。
九州にやってきた新婚さんたちには、気の毒な光景も見られました。旅行中にうまくいかなくなってしまう、今で言えば、いわゆる「成田離婚」ですね。早けれ
ば別府でさようなら、そして次は宮崎でさようなら......。といった感じでね(笑)。旦那さんが1人で宮崎から帰っていく姿も目にしましたよ。私も2人くらい
宮崎駅のご案内をしたこともありました。
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全国各地の新婚さんが宮崎に集まってきたというのは、本当にすごいことですね。
花堂:そうですね。中には、東京行の乗客もとても多かったです。東京との間を走る特急「富士」や急行「高千穂」。こちらは特別に2両ほど追加して走っていたこと
もありました。ただし、その2両は一般の乗客のためのもので、この切符を取るために、地元の人たちが徹夜で並んだほどでした。
当時は飛行機もあまり普及していなかったので、交通手段の要といえば、列車一本。だから、鉄道員はとても鼻が高かったですね。
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