第17話 川崎駅
駅の証人に聴く
川崎駅から徒歩5分のところにある川崎市東田商店街。50年あまりに渡って、川崎と川崎駅の移り変わりを見守ってきました。その商店街の理事長、小林一郎
さんは、昭和12年5月3日生まれ、今年でちょうど70歳。川崎市役所の真向かいの林屋人形店を経営なさっています。戦後、焼け野原だった川崎がどのよう
に発展してきたのか、小林さん自身の思い出とともに語ってくださいました。
─
生まれも育ちもずっと川崎ですよね。
小林:ええ。小学校、中学校、高校と。小学校は宮前小学校、これはもう川崎では2番目に古い小学校。私は1年生で入ったけれど、それからずっと疎開していて、6年生になって戻ってきて、卒業したのは宮前小学校。だから入学と卒業だけ(笑)。
中学校が富士見中学っていう新制中学の第4期目でね。できたばっかりでね。それまでは旧制中学。そこには3年間ずっと通いました。その当時はね、クラスが
1年から3年まで変わらないんですよ。だから中学校の友達とは結構仲がいいですよ。だいぶみんなあちこち行っちゃいましたけど。高校は大森高校ってとこに
入ってね、3年間通いました。
大学では、写真のクラブに入っていてね。写真家になりたかったんだけどね、親父がもう、「店をやれ」ってね。しょうがないから卒業と同時に店に入りましたよ。
─ お父様の代から人形屋さんだったんですか?
小林:いや、戦前はお菓子の製造をやってたんですよ。同じ町内で。もうちょっと奥ばったところで。戦後、(人形屋は)親父の代からね。だからこの「林屋」って名前、お菓子屋の時も林屋だったんですよ。
この近くに(川崎)競馬場がありますけれど、そこに関東大震災の後に東京の方から引越してきてね、そこでやったのがお菓子屋さんの始まり。だから林屋って名前でやってるのは、ちょっと商売が違いますけれどもう80年。
うちの親父がね、川崎は空襲に早くあったでしょ、長野のほうに疎開したんです。戦争が終わってすぐ、(父だけ)こっちにきたのです。で、何か商売をやろう
ということで、鶴見の駅前に露店商みたいのをやったんですよ。その時に何をやろうかってなって、おもちゃ屋をやったんですよ。で、まだそんときは川崎は焼
け野原で、そこに商店街ができるってことをきいてね。すぐに川崎にきて、私のおじいさんが応援していた議員の有力者に頼んで一番いいこの角をとってもらっ
て、おもちゃ屋を始めたんです。おもちゃっていうと人形がやっぱり普通ですよね。で、問屋にすすめられておもちゃと人形を売ったわけです。
私の代になってね。おもちゃっていうとテレビゲームになっちゃったでしょ、おもちゃが売れなくなってきて、もうおもちゃ売っててもしょうがないってことで、人形屋に変えたわけ。だから昔は林家玩具店という名前でした。
だからここで商売始めたのが戦後、昭和24年。焼け野原でしたよ。建物もないし、戦争で残ったのは、向かいの市役所だけでね。
─
子供の頃、このあたりはどのような感じでした?
小林:
一応戦前は川崎で一番の繁華街というと、すぐそこの通り(国道15号線)からずーっと六郷橋までね、そこが一番にぎわったところなんですよ。今は平和通り商店街って言って。
だから昔から川崎にいた人たちは戦後、お店を出すっていうと、そこに近いところにみんな来たわけですよ。駅の方はね、本当にもう草っぱらで、今一番にぎや
かな銀柳会商店街ってのがあるんですけど、あそこはもうどぶ川でね。だから、あそこにお店を出したってのは割合新しい、まあ、地方からきた人たちが多く
て。
─ 戦後の駅周辺はどのような感じでした?
小林:んー、焼け野原。駅もめちゃめちゃで。その当時はまだ木造のモルタルの造りでしたけれど、川崎駅ってのは。まあ川崎駅自身は、これはもう新橋から横浜ま
で、初めて鉄道が通った時に川崎駅ってのができたんでね。で、まあ、川崎ってのは川崎大師があってね、江戸時代から、参拝客が来るんで。川崎駅から人力車
に乗って大師に参拝して。
その当時、関東地方では初めて私鉄の「大師電気鉄道」ってのができて。それが今の京浜急行の一番初めなんです。それが大師駅から、ほんとは川崎駅まで持っ
てきたかった。でもほら、人力車が結局失業しちゃうでしょ。それでね、だいぶ反対にあって、六郷橋のところから川崎駅まで、大師電気鉄道をひくことができ
たんですよ。だから川崎駅から六郷橋までは人力車に乗って。今は京浜急行できて大師まで行けちゃいますけどね。
戦後、私のお店をだして、その時はまだ(川崎市役所の前の)通りもなかったし、ちょうど造ってるところでしたよ。昔の通りってのは、京浜急行からの通りなんです。その角に、川崎一番のデパートがあったんです。
当時は駅のほうには大きな商店街がなかったから、この辺はすごいにぎわいましたけどね。で、昔は川崎は工場地帯でしてね、大きい工場とかあったでしょ。だからそういう人たちの給料日の後とかには商店街もだいぶにぎわって。
今はみんな飲み屋さんになっちゃたけど、昔は魚屋さんもあったし八百屋さんもあったしね。逆に、JR、昔の国鉄の駅っていうのは何もないところだったんだね。
─
この地区で人形屋さんというと林家人形店だけのようですが。
小林:
そうですね、昔は平和通り商店街ってとこに一軒同業者がいたんですけどもうやめちゃってね。今はもう人形専門店もどんどん減ってきちゃって今は社長を引退して息子に譲っちゃってますけど。
私の親父が初代の商店街の理事長だったんですよ。私が最後になっちゃうかな。最近はもう入れ替わっている店が多いですから、昔からあるうちのようなお店ってのはなくなっちゃいましたね。
この商店街は戦後初めてできたほんとに古い商店街で、市が、まあいわゆる昔のバラックっていうんですかね、木材をもってきてこの商店街を建てたんです。で
まあ、川崎市で初めてじゃないかな、うちの親父が理事長の時、アーケードを作ろうっていうのでアーケードを作ったんです。そのあと古くなっちゃって崩れそ
うになって2、3年前、私が理事長の時取り壊してね。
この場所は昔は本当ににぎやかだったのだけど、今はちょっともうさびれたようになっちゃって。せがれは大変だろうと思うけど(笑)。銀柳会通りを通ればわ
かるけど、多いのはパチンコ屋さん、ゲームセンター、ドラックストアでしょ。昔はお客さんがいっぱいきたんだけどね、って昔から地元からいる人たちともよ
く話すよ。昔はね、大師周辺がとにかくにぎやかで川崎っていうのは、そこから発展していったんですよね。
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