駅の記憶

第06話 軽井沢駅
駅の証人に聴く

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    軽井沢駅の昔に詳しい方々に集まっていただき、戦中戦後を中心にお話をお聞きしました。国鉄に勤めていらっしゃった斉藤和男さんと、武田進さん。そして、軽井沢駅で駅そば店を営まれる小川太郎さん。皆様に軽井沢駅の思い出を語っていただきました。

    ─ 皆さんは軽井沢駅でお仕事をされていたのですよね。

    武田:私が国鉄に入社したのは、昭和20年の10月31日のことでした。当時は、お米の買い出しに行く人がたくさん乗っていて、そのために車両の増結をしたほどでした。機関車の前に乗ったりする人までいましたね。軽井沢駅に列車が来ると、そのときに増車していました。

    今はそういうことはないけれど、当時はお客さんが多すぎて、2人掛けの席に3人掛けさせたり、立っている人がいても、どんどん詰め込んで......。満員電車なんてものではありませんでしたね。

    そんな時代が終わって、昭和24年7月、国鉄が人員整理したときがありました。行政整理で、我々は20年に入ったばかりだから、首を切られる可能性があったのです。ところが幸いなことに、戦中と戦後では勝手が違った。

    昔の中学校――今でいえば高校になるけれど、それを卒業して入ると、戦時中は駅の掃除や、終着列車、線路の中の掃除をする「駅手」と呼ばれる職に就きまし た。切符はまだ切ることができない、これが最低職だったわけです。つまり、中学校を終わって入社すると、その上の駅務掛(切符を切ることのできる職名) ――つまり一格上になるには、試験を受けて本職にならないといけなかったんです。

    しかし、終戦までは中学校を卒業すると、駅手を飛び越えて駅務掛になれたのに、とたんになくなっちゃった。8月15日の終戦でなくなってしまったんです。 中学校を卒業しようが、どこを卒業しようが駅士。当時は男性が皆、兵隊さんに行っちゃったから、女子職員が多かったのですが、その女子職員にあごで使われ たなぁ(笑)。そういう時代でした。

    斉藤:
    駅の柱の傍には痰壷という国鉄のマークが入った白い入れ物があって、駅手はそれも綺麗に掃除しなければいけなかったんですよ。

    私が国鉄に入ったのは昭和16年4月ですね。当初、私は東京にいましたので、空襲でとても怖い思いをしました。あの頃はだんだんと学徒動員で次々と駆り出 されていった時代。そんなわけで、私の家でも男一人だけ。当時、国鉄は基幹産業ですから景気がよかったんです。そこで、私も国鉄に入りました。あの頃は 「駅夫」と言っていました。東京鉄道局新橋運輸事務所。新橋、軽井沢間です。当時は、郵便局か国鉄かと言われていました。

    私が軽井沢駅へ転勤してきた当時は、月給が68円。そのままの給料で、中央から地方へ移るのは難しかったのですが、いろいろあって一銭も引かれずに月給68円で働くことができました。

    空襲で焼け出された私は、着の身着のままで軽井沢駅に来ました。着るものも何もない。それに、高崎まで来るだけでも1日半ほどかかりました。そこから高崎 から横川まで出て、横川からは碓氷線に乗る――それは大変でした。焼け出されたのですから、着るものはもうぼろぼろです。

    軽井沢は空襲などなかったですから、そんなことなくて。着るものがなかったのは私だけでした。そして、軽井沢に着いて、着るものをもらって。今考えてみれ ば、とても良くしてもらったと思います。それに、苦しいけれど、国鉄精神がありましたから、強い絆で結ばれていたと思います。

    武田:
    私は国鉄ではないけれど、駅の売店の蕎麦屋をやっていました。
    昔、駅前に油屋旅館というのがありまして、そこが私の本家なんですが、もともとお弁当の仕出しをやっていて、私の家では蕎麦をやっていた。だから昔からの駅を知っています。

    思い出すのは、汽車が着いて別荘のお客さんが駅へ降り立つ。そうすると、タクシーが送迎をするわけです。その後をご用聞きが自転車で追いかける。当時は、 車も今のような馬力はないですからね。10人くらいのご用聞きが自転車で追いかけて、別荘に着いたら、ものを買ってもらうように交渉するんです。あれも軽 井沢の風物詩でした。

    ─ なかには有名人も?

    斉藤:
    昔の別荘地というのは、今とは全く違います。今の軽井沢の住む人とは全然違いました。古き良き軽井沢といった感じですね。今は、セカンドハウスだとかいい ますが、昔は最低でも1000坪はありました。そして、車寄せがあって。アイアンの5番で隅から打ったって、端まで届かないくらいです。立派なものでした よ。芝生で白樺があって。

    当時は、大使館の別荘もたくさんありました。そして、大使館と領事館は治外法権。だからあそこで博打をやるんです。けれど、警察は入れない。そうすると、 コックさんや「ベビヤマ」――外国人の子守りです――そういう人たちは博打やお酒が好きでしたから、集まるわけです。ご主人の食事が終わると、だいたいが 夜10時ころ。そのあたりから集まって、コックの部屋で博打をやる。そして、終わるとみんな数珠繋ぎで出てきたものでした。

    昭和6、7年ごろ――不景気の時ですが、私も外国人の子供と一緒に遊んでいたことがあります。外国人の子供が通りに出てきて、街の中を歩いていくわけで す。それも風物詩だったな。だから、我々が遊んでいると、アメリカやフランス人が「行くべぇ」とか「ばかやろう」とか覚えちゃうんですよね(笑)。

    小川:
    うちの家内の実家は土産物屋だったんですが、別荘の人と土産物屋との関係も、非常に密接でした。軽井沢に着くと「今来ましたよ」と、必ず挨拶にまわる。今はそういったことはないね。わずかにあるとすれば追分の方面かな。あとはぜんぜんなくなってしまいましたが。

    斉藤:
    徳川でも前田でも、田辺製薬でも、使用人や執事がきて、「徳川家です」「田辺家です」と言ってまわるんです。そして、銀座の貝新(かいしん)という佃煮屋 さんの大きな佃煮の包みを持って「今年も軽井沢に来ました。宜しくお願いします」と挨拶をする。いろいろな佃煮が入っていて贅沢でしたね。

    そして帰るときは、「お世話になりました」とちゃんと半紙に10円札――当時で言ったら10円なんて高価でした――を包んで渡すのです。

    昔はお店の主人や奥さん、家族たちが店を守っていたんですね。でも今はアルバイトのような学生が増えて、従業員がお店を守っている。知らないような人たち がお店を守っているわけですから、お客さんは来ても入りにくい。「お世話になりました」とも言いにくい。挨拶の声も掛けられないんですね。だからつきあい も薄い。

    ─ 戦後の軽井沢はどのような様子だったのでしょう?

    斉藤:
    昭和21年は食べ物がないから、今の軽井沢プリンス・ショッピングプラザの辺りの土地では馬鈴薯やもろこし、さつまいもなど何でもつくっていましたね。我々が駅のトイレのものを担いで捨ててたし。

    武田:
    だから、線路でもどこでも大事なモノが落ちていた(笑)。昭和21年に、軽井沢は米軍の第8軍の人たちの避暑地になりました。ニューグランドホテルや万平 ホテルはみな接収しちゃって。そして、その人たちの鉄道輸送のために、RTO(Rail transportation office)と呼ばれるものができました。

    軽井沢には昔から、1等待合室、2等待合室があったのですが、境をつくって昔の一等待合室といわれるところに米軍がRTOをつくりました。自分たちの兵隊 が来るときには、そこを使ったものです。そのとき、私はたまたま旧制中学を出ていたものだから、「お前、ちょっと通訳しろ」と言われて、わけも分からず英 語を使っていたという苦い思い出があります。

    21年後半には新しいR.T.Oがつくられて、正式に職員が配置されました。また、占領軍の指揮官(第8軍)、アメリカのアイケルバーガー中将が軽井沢に 来たときには、軽井沢駅は、下りだったら下りホームに着けるのに、その人は日本は負けたからと、下り列車を上りホームにつけた。そんなこともありました。

    斉藤:
    そうそう。中線に列車をおいて、木の板を渡して、万平ホテルへ行ったんだよね。

    武田: そのとき、戦争に負けた惨めさというのは、つくづく感じました。

    斉藤:
    上野から進駐軍の専用車が下ってくると、その後ろには一般の車もついてくる。直江津、上野間を走る列車の他にね。そういう列車が来るときは、上野が出ると きに連絡がくる。そうするとバスが手配されて、駅でちゃんと待っているわけです。ポーターがバッグだとか積んでやって。それで万平ホテルなどへ行き、休暇 を過ごすわけです。

    天皇皇后も上野からいらしたときには下りホームで降りるのですが、米軍のアイケルバーガー中将が来たときは上り線につけろなどと言う。でも上り線に直接入れるわけにはいかないんです。だから、いったん下り線に入れて、上り線に持ってきて降ろす。

    武田:
    米軍のために、お召し列車が足止めを食らってしまったこともありました。
    お召し列車は、菊の紋章がついている列車なのですが、これだけにはシートをかぶせていました。もちろん、他の車両にはカバーなどはかけません。このお召し列車を交代で寝ずの警備するんです。私が一番最初にやった仕事がそれでした。懐かしいですね。

    ─ 皇室の方々をはじめ、著名人にも愛される軽井沢ですが、やはり当時も駅は混み合いましたか?

    武田:
    たいへんな混みようでしたよ。というのも、当時は長野から東京までの切符は買えなかったんです。「局が違う」という理由からか、軽井沢でいったん打ち切ら れたからです。長野から軽井沢までは買えても、そこから先は買い直さなければならない。だから、軽井沢でいったん全部降りて、切符を買い直して乗ったんで す。昭和30年ごろかなぁ。だから、軽井沢駅は切符を売るのが忙しかったですよ。座って売っていれば、お客さんにつるし上げにあっちゃいますからね (笑)。

    松田聖子さんが売り出しの頃――16歳くらいだったでしょうか――に軽井沢にいらしたんですが、そのときはホームに人があふれちゃって大変でした。

    ─ そのときはどのようにして事故を防いだのですか?

    武田:
    松田聖子さんのような有名人がみえた際には、駅長室に通しました。列車が来ると、乗るのをファンが待っているわけです。ですから、裏口というか、庭を通っ て、自分の乗る車両まで誘導していました。碓氷峠を越すために、補助機関車を着けますから、5分は停車するんですが、その間にそういった方々を駅舎で休ま せたりもしました。

       聴き手、まとめ:NPO「昭和の記憶」


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