駅の記憶

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第19話 下北沢駅 駅の証人に聴く

  • listen_mainimg.jpg下北沢駅北口を出て右手にあるのが戦後から歴史を刻む「下北沢駅前食品市場」です。先代から数えて59年になる乾物商、志村商店の店主として下北沢の様子を見守りつづけてこられた志村高一さんは、昭和22年8月29日生まれの60歳。

    駅周辺の様子や街の移り変わりについて、ご自身の思い出と、先代や上の世代の方々から聞いた内容を元に語ってくださいました。

    ─先代のお父様の開業はいつ頃でしたか。

    志村:父は明治44年生まれ。いのしし年です。三軒茶屋が本店で、下北沢は支店としてはじめました。昭和23年に創業です。それまで「担ぎ屋」さんのようなことをしていた。闇屋だよね、一億総闇屋の時代だから。当初は乾物だけとか言ってられないので、何でも売ってたみたい。

    listen_photo_01.jpg ただ、父が奉公していたのが乾物屋だったので、乾物屋を扱うことになった。奉公していたのは、渋谷の公設市場。いまの246が渋谷のガードした通っているでしょ。あそこにあったんですよ。

    ─先代のお父様の実家は下北沢だったのですか。

    志村:
    もともと、父の実家が鶴川(現東京都町田市)にあってね。食料統制というのがあって、農家やってられなくなるでしょ。戦時中、父は自分の兄がやっている軍 需工場ではたらくことになった。軍需工場で終戦になり、いったん実家にひっこんだけど、農業やるわけにいかなくて、若い時に奉公をして勝手を知っているか ら、商売をやることにしたの。

    はじめは三軒茶屋に三坪ほどの小さい店を構えていて、それから鶴川を引き払って三軒茶屋に落ち着いた。だから、三軒茶屋で育ったんです。

    ─戦後の下北沢周辺の事はいつごろから思い出としてありますか。

    志村:店を出した時は、小さくても呼び出されて見に行くものですから、昭和35年、中学生の時に、下北沢のこの商店街をはじめて見た。

    ─下北沢駅前食品市場の周辺は強制疎開があったと聞きました。市場の発足当時のことは何かご存知ですか。

    志村:
    聞いた話だけど、鉄道の周辺50メートルか60メートルは全部壊すと言われたらしい。ここは駅の裏側だったみたい。いま踏み切りがあるところが入り口。い まの一番街商店街が、「本通り」と呼ばれていました。駅前通だよね。この辺は質屋さんの蔵が立っていて線路のわきのところに狭い道があって、それが改札口 へ続いていると聞いている。

    強制疎開して、ここはもう更地になっているから、小田原の方に魚があるでしょ、みかんがあるでしょ。そういうのを朝行ってかついで帰ってきて、ここの広場 で売ったというのが、ここのマーケット(下北沢駅前食品市場)のはじまりみたいよ。午前中仕入れて売ったら、午後は次のものを仕入れなくちゃというぐらい 売れたらしい。活況だった。終戦直後はね。戸板、板でできた雨戸だけどね、木箱の上に戸板を乗せて売って、売れたらしまって帰るというような形態で商売を していたらしい。だから、一日経つと自分の場所がなくなってしまう。場所取りが必要だった。

    いろいろ経緯があったらしいがだんだんと定位置が決まってきたらしい。よしずばりにしたり、バラックを建てたりして、とにかく色々複雑な事情はあったらし いが、昭和30年代には形になってきたということ。わたしが昭和35年にはじめてここにきたときはいまと同じような感じだよ。ここずらっと露天が並んでい た。15,6軒。お客さんは、ものすごい多かったよ。

    ─ 駅周辺で小さい頃に遊んだ思い出などがありますか。

    志村:働きだしたのは昭和43年ごろから。虫取りとか遊びは三軒茶屋でしたね。聞いた話だけどね。

    グリーン座っていう映画館があって、その裏に池みたいなのがあって、柿木があって、グリーン座に横から入っていったとか。柿を取って、風月堂のおばさんに怒鳴られたとか。そういうエピソードはあるみたいよ。

    ─ 駅の傍の界隈のエピソード、流行っていたお店の事などはご存知ですか。

    志村: 聞いた話でよければ、色々あるよ。木綿屋マキノというお店があって、昔は生地屋さんはえらい売れていたのよ。既製品は高くて買えないから。その傍にスミ レっていう手芸材料屋があって、ボタンだのゴムだの糸だのを買って服を作る。自分や子供の洋服を作る。焼け跡のつぎのファッションはそれだったみたいだ ね。

    私が実際に知っているのは、その次からで、「下北ファッション」といって、ファッションリーダ的なのが出てくる。下北マンボといって、細い、ぴったりした 大胆な柄のズボンをはいていた。そういう人たちが、下北マンボって呼ばれていた。昭和40年くらい。ファッションの街と呼ばれるようになったのがその頃だ ね。

    肉屋の三河屋さんというのがあった。今でこそブロックなどの大きい単位で売るのは当たり前だけど、昔は肉そのものがない。肉屋に対するイメージもよくな かった。真相はともかく、秤に載せる竹の器を作って20グラム位ごまかして売っているのが肉屋だというようなことを聞いたことがある。ネガティブなイメー ジを持たれていたんだね。それが、三河屋さんは違った。どこからどうやって仕入れてくるか分からないが、大きいブロックで肉を売るので、たいへんな行列が 出来ていた。肉を買いに来る人がひっきりなしだった。そこで並ぶとピーコックや花広さんに迷惑がかかるというので、銀行の横の坂道まで人を並ばせて旗を立 てて、売っていた。とにかくすごい繁盛ぶりだった。

    これも聞いた話ね。小清水さんというビルがあるけど、そこの家が牛乳屋さんをやっていてね、戦後にアイスキャンデーを作り出したら、お客さんが沢山きて、ごったがえしていたと聞いたことがある。

    ─ 駅の再開発の影響はありますか。差支えなければ教えてください。

    志村:ここは代替地はないんです。なくなったら移れるわけではない。私自身の考えで言うと、昭和の時代で、小売屋さんの時代は終わりだと思っているんです。だか ら、平成のいまになったら、それまでに築いたもので細々とやるよりほかないと思う。それまでにお世話になったお客さんという財産を引き継いでやっていくん だなという思いがある。

    これから新しいお客さんを開拓するというのは難しいと思うね。駅前はスーパーとコンビニだけになるかもしれませんね。自分では、ここの商店街は原点だと 思っている。下駄履きでも、ハイヒールでも来られる、なんでも揃うマーケットがあって、それが下北の中心だと思っていた。ここは「七五三マーケット」と いって、三坪でも五坪でも七坪でも商売できるという、共生の商店街なんです。

    大きなテナントを入れるスタイルではなくて、そういう共生の商店街の夢はずっと持っていたね。「シモキタ商店街振興組合」に自分は所属していて北口の200店舗以上の総力をあげて、そのような夢を実現しようとした時期もあったが、むずかしかった。

    ─ お店に来るお客さんの客層に変化がありますか。

    listen_photo_02.jpg志村:ここの路地にもいっぱい子供が居てね。子供がいるということは、家族で住んでいるということだから、4人分、5人分の需要があった。今は、下北沢で子育てをして、ずっと住んでいる人たちが少なくなってしまった。

    一時期、多摩ニュータウンや小田急の先に移っていった人たちも多かったけど、ニュータウンはもっと顕著で、世代がつながっていないから、同じ世代がずっと 住みつづけて、いまはお年寄りばかりの団地になってしまっているようだね。人工の街はそうなってしまう。街というのは本来、お年寄りから子供まで上から下 まで居て、世代がつながっていてはじめて街なんだよね。

    暮れになると年寄りが活き活きとするんだよ。子や孫にせがまれておせち料理を作るお年寄りが材料を揃えに来てくれるんだね。腰が曲がったお婆さんが年に一 回買いにきてくれるんです。「やんなっちゃうのよ。おばあちゃんのお豆おいしいって言われてね」なんていってね。愚痴を言いながら目をかがやかせてね。田 作り、黒豆、昆布 おせち料理の準備にきてくれるんです。年々来るお年寄りが少なくなるんです。

    それが悲しいところでね。去年きたあのおばあちゃん来ないな、というのが年々多くなっているんです。

    ─ 乾物についての思いをお聞かせください

    志村:乾物は何百年の知恵がつまっている食材なんです。日に当てて乾燥させることで、うまみが出て、保存が効く。ただそれを使うには、時間と手間をかけて料理することが必要なんだよね。

    今は料理に時間と手間をかけないようになっているし、乾物は売れなくなってしまったね。こういう商売をやっていると、だんだん細くなっていくものを見てい るからね。われわれの世代が終わったら、乾物類というのは本当にめずらしいものになってしまうかもしれないね。この辺でこういう商売やっているのは、吉祥 寺の土屋商店さんとうちだけしかないんだよね。


    聴き手、まとめ:NPO「昭和の記憶」 多名賀
    聴き取り日 07/10/25

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第18話 渋谷駅 駅の証人に聴く

  • listen_mainimg.jpg濤川由雄さんは昭和11年3月8日生まれ。渋谷地下商店街振興組合の理事長として、現在も『しぶちか』活性化のためご活躍されています。ファッション・文 化、流行の発信地として若者や大勢の人で溢れる渋谷も、その昔は瓦屋根の木造2階建てがひしめいていたそうです。長年、渋谷の街の変化を見守り続けてきた 濤川さんに、渋谷駅の移り変わりを伺いました。

    ─ お生まれも渋谷なのですか?

    濤川:昭和11年3月の8日にね、井の頭線がありますね、あそこを降りた近所(井の頭線向かって左の駅前会館ビル)で生まれたんです。昔はあの辺、木造の家屋 で、平屋とか二階建てとか、細い路地でね、仕舞た屋(しもたや)というのがいっぱいあったんです。商売をしていない、人が住んでいるところね。住居専用の 家。そこで生まれたんです。

    listen_photo_01.jpg 両親は大正15年に渋谷に越してきて、その前は深川で商売してました。僕は昭和11年生まれたんですけど、通ったのは大和田小学校。小学校の3年生のとき まで通いました。戦局がだんだん日本にとって不利になってきて、空襲があるだろうってことで、まず学校を閉鎖して、子供たちは戦争の被害にあって死んじゃ うかもわかんないから、地方の山奥の方へ集団疎開させたんです。昭和21年に埼玉の疎開地から戻ってきたんです。

    昭和18年頃かな、駅周辺は空襲にあって、江戸時代のとき火事があると家を壊したでしょ。火が広がらないように。それと同じ考えで、日活とか映画館があったところを、マメタンクっていうちっちゃい戦車みたいなの持ってきて、柱にロープひっかけて、全部ぶっ壊したの。

    listen_photo_02.jpg初代ハチ公は、渋谷駅の駅舎のすぐ前にあったんです。戦時中に金物がなくて、 溶かして鉄砲の弾かなんかになったんだよね。今のハチ公は戦後に作ったんだよね。 4月8日に毎年、ハチ公祭りやっているよ、午後1時からね。 映画もやっててね、松竹とか。

    ─当時の渋谷の映画館の入場料や物価はいくらくらいだったのですか?

    濤川:僕は松竹ではなくて銀星座っていうニュース専門の映画館に行ってた。
    入場料は5銭か10銭くらいかな。
    普通の映画館は50銭とか、1円とか。銀星座では桃太郎のキャラクターを使って飛行機乗りかなんかの兵士になって、戦争に行くって言う映画をやってて、それを見たことあるなぁ。

    道玄坂の上の方に憲兵隊があったんですよ。で、その憲兵の隊長なんかが乗ってる車がね、坂下りてきて、パンクして止まっちゃったの。それを見たうちの親父 が『パンクしちゃった』って指摘をしたら、それが気に障ったのか、憲兵隊に連れてかれて、しぼられたって言ってたなぁ。それくらい怖かったんだな。

    終戦直後、昭和20年か21年くらいかな、共栄マーケットってのができててね。そのマーケットでグローブ買ってもらったの。100円くらいかなぁ。当時は かけそばが100円切ってて、80円くらいの値段。たぬきうどんが100円で、そんなの食べられなかったなぁ。ラーメンが30円くらい。
    そのとき渋谷駅から電車に乗ると、初乗りの子供料金で5銭。大人で10銭くらいだったかな。僕が小学生のころ、4年生か5年生のとき、5銭札とか10銭札があったね。

    ─ 今、渋谷駅はものすごく人が多いですが、どのよう移り変わってきたのですか?

    濤川: 渋谷はしっとりした所だった。昔もそれなりにごちゃごちゃしてたけど、今ほどじゃないですよ。昭和35年ごろの写真見てみなよ、道玄坂だってみんな瓦屋根の2階建てだもの。ビルは東急東横とかくらいだよ。道玄坂なんてビルは全然なし。木造の2階建て。

    目に見えて変わってきたのは、109が出来たころからだろうね。それまであんまりビルはなくってね。109の道路の反対側に、5階建てのビルがあったくら い。パルコは109より3、4年前に出来たのかな。パルコが出来る前までは、あの通りなんてのは、夜は怖くて歩けなかった。代々木の練兵場もあったしね。

    ─ 今、渋谷はファッションや流行の発信地というイメージがあるのですが...

    濤川:渋谷はね、ファッションの発信地って言ってるけどね、青学(青山大学)がでかいんだよ。おしゃれな子がいてねぇ。青学の隣、代官山の方へ入っていく八幡通 りの手前の店が、ロゴ入りTシャツってのを売り出したんだよ。それまでTシャツって無地だったんだけど。そこに大学の学生が並んだんだよ。昭和44、45 年くらいだったかなぁ。そこが売れたんだよ。青学の学生と、パルコ。パルコは結構、芸能人きてたからねぇ。

    ─ 渋谷にゆかりのある方では、どのような方が居ましたか?

    濤川:森光子さん。実際僕が見たのは森光子さんだけど、他にも結構来てるってのは聞いてた。

    戦前は、松濤(しょうとう)っていうお屋敷町があったんだよ。松濤って知らない?田園調布より一つ格上なんだよ。変わっちゃったけどね。山本富士子さんと かね、緒方竹虎さんっていう自由党の党首か、そういった錚々たるメンバーが住んでた。森進一さんとか、あと国鉄の三輪さんとか。僕は松濤に間借りしてたか らね。そういったお子さんたちと遊んだわけ。俳優もいただろうね。

    今は南平台の方が格上だけど、松濤っていうと、お屋敷町ではダントツだったの。財界が多い。あと、奥の東横線、田園調布、自由が丘。昔はお屋敷町だったん だよ。一宅地300坪くらいあったんだよ。戦後、相続税が発生して、それが払えなくてみんな分割してっちゃう。今じゃ50坪から100坪くらいになっ ちゃった。今はお店がいっぱいあるけどね。

    渋谷地下街しぶちか のホームページ


    聴き手、まとめ:NPO「昭和の記憶」 吉野・斉藤
    聴き取り日 2007/08/21


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第17話 川崎駅 駅の証人に聴く

  • listen_mainimg.jpg川崎駅から徒歩5分のところにある川崎市東田商店街。50年あまりに渡って、川崎と川崎駅の移り変わりを見守ってきました。その商店街の理事長、小林一郎 さんは、昭和12年5月3日生まれ、今年でちょうど70歳。川崎市役所の真向かいの林屋人形店を経営なさっています。戦後、焼け野原だった川崎がどのよう に発展してきたのか、小林さん自身の思い出とともに語ってくださいました。

    ─ 生まれも育ちもずっと川崎ですよね。

    小林:ええ。小学校、中学校、高校と。小学校は宮前小学校、これはもう川崎では2番目に古い小学校。私は1年生で入ったけれど、それからずっと疎開していて、6年生になって戻ってきて、卒業したのは宮前小学校。だから入学と卒業だけ(笑)。

    listen_photo_01.jpg 中学校が富士見中学っていう新制中学の第4期目でね。できたばっかりでね。それまでは旧制中学。そこには3年間ずっと通いました。その当時はね、クラスが 1年から3年まで変わらないんですよ。だから中学校の友達とは結構仲がいいですよ。だいぶみんなあちこち行っちゃいましたけど。高校は大森高校ってとこに 入ってね、3年間通いました。

    大学では、写真のクラブに入っていてね。写真家になりたかったんだけどね、親父がもう、「店をやれ」ってね。しょうがないから卒業と同時に店に入りましたよ。

    ─ お父様の代から人形屋さんだったんですか?

    小林:いや、戦前はお菓子の製造をやってたんですよ。同じ町内で。もうちょっと奥ばったところで。戦後、(人形屋は)親父の代からね。だからこの「林屋」って名前、お菓子屋の時も林屋だったんですよ。

    この近くに(川崎)競馬場がありますけれど、そこに関東大震災の後に東京の方から引越してきてね、そこでやったのがお菓子屋さんの始まり。だから林屋って名前でやってるのは、ちょっと商売が違いますけれどもう80年。

    うちの親父がね、川崎は空襲に早くあったでしょ、長野のほうに疎開したんです。戦争が終わってすぐ、(父だけ)こっちにきたのです。で、何か商売をやろう ということで、鶴見の駅前に露店商みたいのをやったんですよ。その時に何をやろうかってなって、おもちゃ屋をやったんですよ。で、まだそんときは川崎は焼 け野原で、そこに商店街ができるってことをきいてね。すぐに川崎にきて、私のおじいさんが応援していた議員の有力者に頼んで一番いいこの角をとってもらっ て、おもちゃ屋を始めたんです。おもちゃっていうと人形がやっぱり普通ですよね。で、問屋にすすめられておもちゃと人形を売ったわけです。

    私の代になってね。おもちゃっていうとテレビゲームになっちゃったでしょ、おもちゃが売れなくなってきて、もうおもちゃ売っててもしょうがないってことで、人形屋に変えたわけ。だから昔は林家玩具店という名前でした。

    だからここで商売始めたのが戦後、昭和24年。焼け野原でしたよ。建物もないし、戦争で残ったのは、向かいの市役所だけでね。

    ─ 子供の頃、このあたりはどのような感じでした?

    小林: 一応戦前は川崎で一番の繁華街というと、すぐそこの通り(国道15号線)からずーっと六郷橋までね、そこが一番にぎわったところなんですよ。今は平和通り商店街って言って。

    だから昔から川崎にいた人たちは戦後、お店を出すっていうと、そこに近いところにみんな来たわけですよ。駅の方はね、本当にもう草っぱらで、今一番にぎや かな銀柳会商店街ってのがあるんですけど、あそこはもうどぶ川でね。だから、あそこにお店を出したってのは割合新しい、まあ、地方からきた人たちが多く て。

    ─ 戦後の駅周辺はどのような感じでした?

    小林:んー、焼け野原。駅もめちゃめちゃで。その当時はまだ木造のモルタルの造りでしたけれど、川崎駅ってのは。まあ川崎駅自身は、これはもう新橋から横浜ま で、初めて鉄道が通った時に川崎駅ってのができたんでね。で、まあ、川崎ってのは川崎大師があってね、江戸時代から、参拝客が来るんで。川崎駅から人力車 に乗って大師に参拝して。

    その当時、関東地方では初めて私鉄の「大師電気鉄道」ってのができて。それが今の京浜急行の一番初めなんです。それが大師駅から、ほんとは川崎駅まで持っ てきたかった。でもほら、人力車が結局失業しちゃうでしょ。それでね、だいぶ反対にあって、六郷橋のところから川崎駅まで、大師電気鉄道をひくことができ たんですよ。だから川崎駅から六郷橋までは人力車に乗って。今は京浜急行できて大師まで行けちゃいますけどね。

    戦後、私のお店をだして、その時はまだ(川崎市役所の前の)通りもなかったし、ちょうど造ってるところでしたよ。昔の通りってのは、京浜急行からの通りなんです。その角に、川崎一番のデパートがあったんです。

    当時は駅のほうには大きな商店街がなかったから、この辺はすごいにぎわいましたけどね。で、昔は川崎は工場地帯でしてね、大きい工場とかあったでしょ。だからそういう人たちの給料日の後とかには商店街もだいぶにぎわって。

    今はみんな飲み屋さんになっちゃたけど、昔は魚屋さんもあったし八百屋さんもあったしね。逆に、JR、昔の国鉄の駅っていうのは何もないところだったんだね。

    ─ この地区で人形屋さんというと林家人形店だけのようですが。

    listen_photo_02.jpg小林: そうですね、昔は平和通り商店街ってとこに一軒同業者がいたんですけどもうやめちゃってね。今はもう人形専門店もどんどん減ってきちゃって今は社長を引退して息子に譲っちゃってますけど。

    私の親父が初代の商店街の理事長だったんですよ。私が最後になっちゃうかな。最近はもう入れ替わっている店が多いですから、昔からあるうちのようなお店ってのはなくなっちゃいましたね。

    この商店街は戦後初めてできたほんとに古い商店街で、市が、まあいわゆる昔のバラックっていうんですかね、木材をもってきてこの商店街を建てたんです。で まあ、川崎市で初めてじゃないかな、うちの親父が理事長の時、アーケードを作ろうっていうのでアーケードを作ったんです。そのあと古くなっちゃって崩れそ うになって2、3年前、私が理事長の時取り壊してね。

    この場所は昔は本当ににぎやかだったのだけど、今はちょっともうさびれたようになっちゃって。せがれは大変だろうと思うけど(笑)。銀柳会通りを通ればわ かるけど、多いのはパチンコ屋さん、ゲームセンター、ドラックストアでしょ。昔はお客さんがいっぱいきたんだけどね、って昔から地元からいる人たちともよ く話すよ。昔はね、大師周辺がとにかくにぎやかで川崎っていうのは、そこから発展していったんですよね。

    林屋人形店のホームページ
    川崎市東田商店街のホームページ


    聴き手、まとめ:NPO「昭和の記憶」 吉野智衣子
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第16話 新橋駅 駅の証人に聴く

  • listen_mainimg.jpg長尾武次さんは昭和8年8月2日生まれ。明治18年に創業した化粧品店の3代目として、新橋ニュービルにもお店を開いていらっしゃいます。ニュー新橋ビル 連合会会長、東京都港区商店街連合会副会長としても活動され、生まれ育った新橋地区活性化のため、地域の方々と様々な取り組みをされています。新橋駅の変 遷を肌で感じてこられた長尾さんに、駅前の移り変わりの様子について伺いました。

    ─ 長尾会長が幼いころ、当時の新橋駅はどんな様子でしたか?

    長尾:僕は虎ノ門で育ったから、新橋は行動範囲。そのころ熱海に別荘があったんで ね、ちょくちょく親に連れられて新橋駅から行ったり来たりしてたよ。私がまだ幼稚園にあがる前ごろ、昭和12、13年ぐらいのころはまだ東口だけだったと 思います。今もうっすらと覚えてるけれども、立派な駅だったよ。駅舎の格好は今と変わらないけども、天井が高くて、降りると赤じゅうたんがひいてあるの。 そこへね、汽車が来ると、当時は高いビルがないから、まず見えるのが愛宕山。「汽笛一斉 新橋を」のあの歌(鉄道唱歌)の通りの風景がそのまま見えてね。 それから向かい側を見るとね、品川の海が見える。昭和20年3月10日の空襲で全部焼けてしまってね、終戦を迎えたころも、まだまだ同じ雰囲気で、汽車に 乗ればそんな風景が見えた。それで新橋のヤミ市ができた。そのころ新橋の西口ができたんだね。西口にヤミ市が広がってね。そのころ、東口はだいぶ廃れてい た。東口は降りる人がめったにいない。でも、その方面には築地があるから、朝の買出しの時だけ、商売する人たちの行き来が見られましたね。だから、戦前は 東口だったけど、戦後、西口ができてからは西口がどんどん繁栄していきました。

    それから、当時は駅のプラットホームは1本だったんだよ。今は3本あるけどね。ホームの長さも今より短かったから、改札の場所も違ったね。ガード下の赤レ ンガのアーチは昔のままだよ。新橋~有楽町~東京まで続くあのアーチは大正時代に作られたっていわれているね。松の木を心棒にして作られたと。もう100 年ももってるわけだから頑丈だね。もうさすがに寿命だといわれてるけど...。

    ─ 新橋といえば、サラリーマンの飲み屋街が印象的ですが。

    listen_photo_01.jpg長尾:ヤミ市ができて、そこから派生して、どんどん人が集まるから、朝昼晩の食事処が繁盛していったわけですね。汐留は近代的な雰囲気ですが、こちらはそういっ た昔ながらの商売の雰囲気が残っていますね。汐留のお店はどこも30~40坪ぐらいあるけど、こちらはどこのお店も5~10坪ぐらい。そういうお店が残っ ていますね。近代性を競ったら競っても競いきれない(笑)。新橋には、心のコミュニケーションのある商売をしていってほしいという思いがありますね。

    当時はとにかく食べるのがやっとでね、お米や着るものがなかった。そこで、自然発生的に、家の中に残っているあらゆるものを売ってお米に換えていた。農家 の人たちも、新橋で売った方が3倍も10倍も値段が取れるから、関東周辺の人々ははみんなお米やなにかをを担いで新橋まで持ってくる。そこでたくさん稼い だ人もいた。だから新橋がヤミ市といわれたんだね。

    でも、このままこきたないヤミ市があると困るから、再開発をしてきれいにしようと、都がこのあたり一帯を買い取って、再開発を始めたんですね。それででき た第一号がニュー新橋ビルだったんです。昭和46年4月16日にオープンしたの。今までこの地域で250軒以上あった商店をまとめて、優先的にこのビルに 入れていったんだね。区分所有ビル、つまりマンションの第一号だね。普通はビルのオーナーがいて、全体で何時に開店、何時に閉店といった統制があるけど、 このビルは、各店舗一人ひとりがオーナーだから、シャッターを下ろしているところもあれば、営業しているところもある。雑居ビルの典型がニュー新橋ビルだ ね。

    まだ交通の状態が今みたいじゃなかったころね、霞ヶ関の官庁がありましてね、そこに勤めている人がほとんど新橋から歩いてきて当時の国鉄に乗って家に帰っ ていった。だから、当時は会社が終われば必ず新橋を通る。そこで一杯飲んで帰ろうと。「新橋の赤提灯は安い」と言われてね。毎日飲んでもやっていけるお値 段だったからね。それで新橋が繁栄した。でも、だんだん世の中が変わってね、不況の影響からか、官庁の接待が禁止になったりで、世の中の考え方が変わって きた。それで元気がなくなっちゃったんだね。

    ─ 長尾会長のお店は昔から新橋にあるのですか?

    長尾:お店自体は神谷町で明治18年創業。「長尾化粧品店」ね。その後、しばらくは虎ノ門でやっていたんだけど、昭和31年烏森通りに移動し、新橋の仲間入りを したわけ。そのころは芸者がいてね。新橋芸者といってね。烏森芸者はそのワンランク下。だから、夜中にお店を開いていても商売になった。芸者さんがみんな 買い物に来てね。検番っていう芸者の元締めがあったよ。ニュー新橋ビルができたから、その中にもお店を持つことになりました。

    当時バラックで焼き鳥なんかをやいていた人たちが当時のやり方をそのままビルの中でやってね。お店の中でサンマ焼いたりアジを焼いたりしてたもんだから、 ビルはけむりだらけ。でも、煙がにおわないとお客がこないと(笑)。ヤミ市の発想を引きずってそのままビルになったというわけだね。

    今はオーナーが330人ほど、お店は250軒ぐらいあるけど、当時から続いているところは15~16店ほど。そのころは父親の世代が寝ずに24時間働いて 必死な思いでこのビルに入ったけれど、だんだんその土地が高く売れるようになってきて、息子の世代が簡単に売ってしまった。時代の流れだね。住宅も80軒 ほどあったけど、今残っているのは4~5軒。ほとんどは事務所になったね。

    ─ 長尾会長にとって、新橋とはどんな街ですか?

    長尾: 新橋は昔から気取らないいい街。サラリーマンが朝晩通勤で利用してくださった。新橋があったから日本経済の今がある、僕はつくづくそう思う。毎日サラリーマンが鞄を持って行き来してね。そういう人たちが日本を築いた、そう思うね。

    これからは、やっぱり西口を基点に、昔ながらの味わいを残しながら、今風の要素を取り入れた街づくりをしていきたいと考えています。このビルが変れば街も 変わる。今の人たちは、「安心・安全・きれい」を求めるからね。今風だけを重視するわけじゃないけど、お客が望んでいることをも叶えていかないとね。でも このビルだけが変わっても仕方ない。街もJRも東京も一つになって動かないと進まないね。

    今では年に4回、SL広場で大きな古本市を開いています。大盤将棋は毎週土曜に開催。それから「こいち祭り」っていうのもやってるよ。"こいち"ってうの はね、サラリーマンたちが「小一時間飲んで帰ろうよ!」と話すことからつけたんだよ。新橋でこういった定着した催しがたくさんある。"おじさん"の街とい うだけでなく、若い人や女性もずいぶんと訪れるようになっています。今は、立ち飲み屋さんに女性がたくさんいるからね。これからもっとたくさんの人が集ま る街にしていきたいね。


    聴き手、まとめ:NPO「昭和の記憶」
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