下北沢駅北口を出て右手にあるのが戦後から歴史を刻む「下北沢駅前食品市場」です。先代から数えて59年になる乾物商、志村商店の店主として下北沢の様子を見守りつづけてこられた志村高一さんは、昭和22年8月29日生まれの60歳。
駅周辺の様子や街の移り変わりについて、ご自身の思い出と、先代や上の世代の方々から聞いた内容を元に語ってくださいました。
─先代のお父様の開業はいつ頃でしたか。
志村:父は明治44年生まれ。いのしし年です。三軒茶屋が本店で、下北沢は支店としてはじめました。昭和23年に創業です。それまで「担ぎ屋」さんのようなことをしていた。闇屋だよね、一億総闇屋の時代だから。当初は乾物だけとか言ってられないので、何でも売ってたみたい。
ただ、父が奉公していたのが乾物屋だったので、乾物屋を扱うことになった。奉公していたのは、渋谷の公設市場。いまの246が渋谷のガードした通っているでしょ。あそこにあったんですよ。
─先代のお父様の実家は下北沢だったのですか。
志村:もともと、父の実家が鶴川(現東京都町田市)にあってね。食料統制というのがあって、農家やってられなくなるでしょ。戦時中、父は自分の兄がやっている軍
需工場ではたらくことになった。軍需工場で終戦になり、いったん実家にひっこんだけど、農業やるわけにいかなくて、若い時に奉公をして勝手を知っているか
ら、商売をやることにしたの。
はじめは三軒茶屋に三坪ほどの小さい店を構えていて、それから鶴川を引き払って三軒茶屋に落ち着いた。だから、三軒茶屋で育ったんです。
─戦後の下北沢周辺の事はいつごろから思い出としてありますか。
志村:店を出した時は、小さくても呼び出されて見に行くものですから、昭和35年、中学生の時に、下北沢のこの商店街をはじめて見た。
─下北沢駅前食品市場の周辺は強制疎開があったと聞きました。市場の発足当時のことは何かご存知ですか。
志村:聞いた話だけど、鉄道の周辺50メートルか60メートルは全部壊すと言われたらしい。ここは駅の裏側だったみたい。いま踏み切りがあるところが入り口。い
まの一番街商店街が、「本通り」と呼ばれていました。駅前通だよね。この辺は質屋さんの蔵が立っていて線路のわきのところに狭い道があって、それが改札口
へ続いていると聞いている。
強制疎開して、ここはもう更地になっているから、小田原の方に魚があるでしょ、みかんがあるでしょ。そういうのを朝行ってかついで帰ってきて、ここの広場
で売ったというのが、ここのマーケット(下北沢駅前食品市場)のはじまりみたいよ。午前中仕入れて売ったら、午後は次のものを仕入れなくちゃというぐらい
売れたらしい。活況だった。終戦直後はね。戸板、板でできた雨戸だけどね、木箱の上に戸板を乗せて売って、売れたらしまって帰るというような形態で商売を
していたらしい。だから、一日経つと自分の場所がなくなってしまう。場所取りが必要だった。
いろいろ経緯があったらしいがだんだんと定位置が決まってきたらしい。よしずばりにしたり、バラックを建てたりして、とにかく色々複雑な事情はあったらし
いが、昭和30年代には形になってきたということ。わたしが昭和35年にはじめてここにきたときはいまと同じような感じだよ。ここずらっと露天が並んでい
た。15,6軒。お客さんは、ものすごい多かったよ。
─
駅周辺で小さい頃に遊んだ思い出などがありますか。
志村:働きだしたのは昭和43年ごろから。虫取りとか遊びは三軒茶屋でしたね。聞いた話だけどね。
グリーン座っていう映画館があって、その裏に池みたいなのがあって、柿木があって、グリーン座に横から入っていったとか。柿を取って、風月堂のおばさんに怒鳴られたとか。そういうエピソードはあるみたいよ。
─
駅の傍の界隈のエピソード、流行っていたお店の事などはご存知ですか。
志村:
聞いた話でよければ、色々あるよ。木綿屋マキノというお店があって、昔は生地屋さんはえらい売れていたのよ。既製品は高くて買えないから。その傍にスミ
レっていう手芸材料屋があって、ボタンだのゴムだの糸だのを買って服を作る。自分や子供の洋服を作る。焼け跡のつぎのファッションはそれだったみたいだ
ね。
私が実際に知っているのは、その次からで、「下北ファッション」といって、ファッションリーダ的なのが出てくる。下北マンボといって、細い、ぴったりした
大胆な柄のズボンをはいていた。そういう人たちが、下北マンボって呼ばれていた。昭和40年くらい。ファッションの街と呼ばれるようになったのがその頃だ
ね。
肉屋の三河屋さんというのがあった。今でこそブロックなどの大きい単位で売るのは当たり前だけど、昔は肉そのものがない。肉屋に対するイメージもよくな
かった。真相はともかく、秤に載せる竹の器を作って20グラム位ごまかして売っているのが肉屋だというようなことを聞いたことがある。ネガティブなイメー
ジを持たれていたんだね。それが、三河屋さんは違った。どこからどうやって仕入れてくるか分からないが、大きいブロックで肉を売るので、たいへんな行列が
出来ていた。肉を買いに来る人がひっきりなしだった。そこで並ぶとピーコックや花広さんに迷惑がかかるというので、銀行の横の坂道まで人を並ばせて旗を立
てて、売っていた。とにかくすごい繁盛ぶりだった。
これも聞いた話ね。小清水さんというビルがあるけど、そこの家が牛乳屋さんをやっていてね、戦後にアイスキャンデーを作り出したら、お客さんが沢山きて、ごったがえしていたと聞いたことがある。
─
駅の再開発の影響はありますか。差支えなければ教えてください。
志村:ここは代替地はないんです。なくなったら移れるわけではない。私自身の考えで言うと、昭和の時代で、小売屋さんの時代は終わりだと思っているんです。だか
ら、平成のいまになったら、それまでに築いたもので細々とやるよりほかないと思う。それまでにお世話になったお客さんという財産を引き継いでやっていくん
だなという思いがある。
これから新しいお客さんを開拓するというのは難しいと思うね。駅前はスーパーとコンビニだけになるかもしれませんね。自分では、ここの商店街は原点だと
思っている。下駄履きでも、ハイヒールでも来られる、なんでも揃うマーケットがあって、それが下北の中心だと思っていた。ここは「七五三マーケット」と
いって、三坪でも五坪でも七坪でも商売できるという、共生の商店街なんです。
大きなテナントを入れるスタイルではなくて、そういう共生の商店街の夢はずっと持っていたね。「シモキタ商店街振興組合」に自分は所属していて北口の200店舗以上の総力をあげて、そのような夢を実現しようとした時期もあったが、むずかしかった。
─
お店に来るお客さんの客層に変化がありますか。
志村:ここの路地にもいっぱい子供が居てね。子供がいるということは、家族で住んでいるということだから、4人分、5人分の需要があった。今は、下北沢で子育てをして、ずっと住んでいる人たちが少なくなってしまった。
一時期、多摩ニュータウンや小田急の先に移っていった人たちも多かったけど、ニュータウンはもっと顕著で、世代がつながっていないから、同じ世代がずっと
住みつづけて、いまはお年寄りばかりの団地になってしまっているようだね。人工の街はそうなってしまう。街というのは本来、お年寄りから子供まで上から下
まで居て、世代がつながっていてはじめて街なんだよね。
暮れになると年寄りが活き活きとするんだよ。子や孫にせがまれておせち料理を作るお年寄りが材料を揃えに来てくれるんだね。腰が曲がったお婆さんが年に一
回買いにきてくれるんです。「やんなっちゃうのよ。おばあちゃんのお豆おいしいって言われてね」なんていってね。愚痴を言いながら目をかがやかせてね。田
作り、黒豆、昆布 おせち料理の準備にきてくれるんです。年々来るお年寄りが少なくなるんです。
それが悲しいところでね。去年きたあのおばあちゃん来ないな、というのが年々多くなっているんです。
─
乾物についての思いをお聞かせください
志村:乾物は何百年の知恵がつまっている食材なんです。日に当てて乾燥させることで、うまみが出て、保存が効く。ただそれを使うには、時間と手間をかけて料理することが必要なんだよね。
今は料理に時間と手間をかけないようになっているし、乾物は売れなくなってしまったね。こういう商売をやっていると、だんだん細くなっていくものを見てい
るからね。われわれの世代が終わったら、乾物類というのは本当にめずらしいものになってしまうかもしれないね。この辺でこういう商売やっているのは、吉祥
寺の土屋商店さんとうちだけしかないんだよね。
聴き手、まとめ:NPO「昭和の記憶」 多名賀
聴き取り日 07/10/25